EPISODE 03
異変と覚悟
ASH JOURNEY
翌朝、重い足取りでボスの部屋へと向かった。
昨夜、PCの画面に映し出された『臨床レポート』と『殺処分命令』の文字が、まるで焼き印のように脳裏へ焼き付いて離れない。
ハッキングの痕跡は完璧に消した。ログも履歴も改ざん済みだ。証拠は一切残っていない。
それでも胸の奥はざわついていた。
もし少しでも勘づかれていたら。
もし昨夜の行動が露見していたら。
その時点で、俺もアスハも終わる。
無意識に拳を握ると、掌にはじっとりと嫌な汗が滲んでいた。
静かに大きなドアを三度叩く。
「入れ」
低い声が返る。
扉を開けると、いつもと何一つ変わらない景色だった。
無機質な執務室。
壁に掛けられた時計。
分厚い書類の山。
そして、その中心に座る男。
ボスは俺を一瞥すると、感情のない顔のままデスクの上へ厚いファイルを滑らせた。
「次の仕事だ。」
俺は黙って受け取る。
ターゲットは重武装した私兵に守られた廃ビル。
写真だけでも危険さが伝わってくる。
「……受け取ります。」
努めて平坦な声で答える。
心臓だけが、不自然なくらい速く脈打っていた。
踵を返し、その場を離れようとした瞬間だった。
「……宮薙。」
低く名前を呼ばれる。ボスが立ち上がり、俺に歩み寄る。
そして肩へ、ぽん、と軽く手が置かれた。
その温度が、妙に冷たかった。
「……ッ」
耳元へ顔を寄せたボスが、小さく笑う。
「あのガキの”ネジ”、そろそろ限界だろ。」
ぞくり、と背筋を悪寒が走る。
「向こうで暴走したら、迷わず後ろから頭を撃ち抜け」
一拍置いて。
「お前をバディにしたのは、そのための保険だ。」
世界から音が消えた。
やはり知っていた。
最初から。
アスハが壊れることも。
俺が処分役になることも。
すべて予定通りだった。
胸の奥で何かがぐしゃりと潰れる。
……ふざけるな。
怒鳴りたかった。
机を蹴り飛ばして、この男の顔面を殴り飛ばしたかった。
だが、それをした瞬間に終わる。
アスハも。
俺も。
だから奥歯を噛み締める。
歯が軋むほど力を込めても、込み上げる吐き気は消えなかった。
「……了解しました。」
自分でも驚くほど冷たい声だった。
ボスは満足そうに小さく笑う。
「期待してるぞ。」
俺は返事もせず部屋を後にした。
廊下へ出た瞬間、張り詰めていた糸が切れた。
壁へ拳を叩きつける。
鈍い音が響く。
「……クソが。」
血が滲んでも痛みは感じなかった。
アスハの部屋のドアをノックする。
「はーい」
アスハの少女らしい声が部屋から響く。
「任務の通達だ。出るぞ」
そして、言葉を付け加える。
「今回はかなりの長距離移動だ。宿泊の用意をしろ」
どたどたと足音を立ててアスハがドアを開ける。
「それでは3分じゃ足りないので、部屋で待っててください。そこのソファに座っていいんで」
アスハの部屋は自室の隣なので別に彼女の部屋で待つ必要などないのだが、これが最後になるかもれない。そう思うと自然と彼女の顔を見ていたかった。
アスハの部屋は白とピンクを基調とした、少女らしい部屋だった。ぬいぐるみがそこらじゅうに散らばっていて、先日少女趣味な洋服屋で試着を待っていた時のことを思い出した。
アスハの言うとおり部屋のソファで待つことにした。
ぬいぐるみをかき分け、どっかりと座る。
アスハはクローゼットをひっくり返し、服を漁っている。「こっちがいいですかね〜こっちもいいかな。迷いますね〜」
まるで旅行に行くかのような支度だ。「任務だぞ。必要最低限でいい」と横から楯突くと、「うるさいですね」と一蹴された。
かれこれアスハの支度は30分はかかった気がする。
やはり自室で待っていた方がよかったか。そう思い始めた時。
「お待たせしました!」
トランクを片手に満面の笑みを浮かべるアスハが仁王立ちする。
「三十一分でした! 新記録です!」
「どこがだ……」
思わずため息が漏れる。
「宿泊って聞いたら、やっぱり服も選びたいじゃないですか」
「暗殺に行くんだぞ」
「暗殺にもおしゃれは必要です」
胸を張るアスハに呆れながらも、口元がほんの少しだけ緩む。
──本当に。
何も知らないんだな。
この任務が、自分にとってどういう意味を持つのか。
ボスが、お前をどういう存在として見ているのか。
知らないまま笑っていてくれ。
せめて、今だけは。
俺はアスハから視線を逸らし、先に廊下へ歩き出した。
「置いていきますよ!」
いつも通りのやり取り。
いつも通りの距離感。
それが、妙に胸へ刺さった。
車を走らせる。
雨雲が空を覆い、高速道路を叩く雨粒がフロントガラスを白く濁らせていた。
助手席では、アスハがストローをくわえ、いちごミルクを飲みながら鼻歌を歌っている。
窓の外を眺めたり、シートを倒してみたり、子どものように落ち着きがない。
「宮薙さん。」
「なんだ。」
「サービスエリア寄りましょうね。」
「……任務だぞ。旅行じゃない」
「だからです。」
意味の分からない理屈だった。
「ソフトクリーム食べたいです。」
「却下。」
「えぇー!」
頬を膨らませる。
その顔を横目で見た俺は、小さく息を吐く。
……そんな顔をするな。
笑うな。
俺を信用するな。
そんなことをされるほど、撃てなくなる。
結局、駄々をこねたアスハに根負けし、サービスエリアに寄ることになった。
喫煙所でタバコを吸っていると、暇を持て余したアスハがこちらへ近づいてくる。
「おいしいですか」
「…なんだ」
「私たちって多分その、あんまり寿命ないじゃないですか。だから生き急がなくてもいいんじゃないかなって」
ひょいとタバコをアスハに取られた。アスハは見よう見まねでタバコを吸ってみせた。
「ゲホッゴホッ…まずっ…なんですかこれ」
「…ガキにはまだ早いよ」
アスハからタバコを取り上げ、火を消す。
「ソフトクリーム、いくか」
「はい!」
アスハは嬉しそうに飛び跳ね、俺の後ろをついていった。
「なんですか、これ」
サービスエリアのフードコートに座ったアスハは、メニューを見て目を輝かせている。
「めちゃくちゃ美味しそうじゃないですか。これ」
アスハが指を指したのは、大盛りのいちごパフェだった。赤とピンクと白のどデカいスイーツ。当初の目的はソフトクリームだったはずだ。
「ソフトクリームはどうした」
「だってこれ、こんなの見ちゃったら食べたくなりますよ。今日朝ごはんもたべてないですし」
アスハの子犬のような瞳が俺を射抜く。「食べたいです〜宮薙さん」とさらに追い討ちをかけてきた。
「…仕方がないな。今日だけだぞ。」
俺はため息をつきながら店員を呼ぶ。
「この、ぷりんせす♡いちごぱふぇDX一つ。」
「プッ!!!!似合わな…!!!!」
「何笑ってんだ」
思わずアスハを睨むと、彼女は可笑しくてたまらないとでも言うように笑っていた。
アスハは「ぷりんせす♡いちごぱふぇDX」をぺろりと平らげると、満足そうに腹を撫でていた。
俺たちはサービスエリアを出ると再び車を走らせる。
目的地の中間あたりにさしかかるところになると、あたりはすっかり暗くなっていた。
「今日の宿はここだ」
ビジネスホテルの駐車場に車を止めて、俺は言う。
「え、まさか同室じゃないですよね」
「……そのまさかだ。誰かさんのせいでな」
「どういうことですか!?」
俺はことの経緯をアスハに話す。アスハが経費で大量の服を買ったのが上層部にバレたこと。それでこっぴどく俺が叱られたこと。今回は経費削減のため同室宿泊になったこと。
「……私レズですからね!?」
「どうでもいい。端からガキには興味がない」
「そういうことじゃないです!年頃の女の子をこんな…男の人と一晩過ごせって…どうなってるんですか」
「お前のせいだろ」
はあと俺はため息をつく。せめて夜くらいは静かに過ごしたかったのに、これじゃあうるさくて落ち着く暇もないだろう。
部屋に入ってから、アスハはブーツを脱ぎ捨て開口一番にこう言った。
「わたしに絶対なにもしないでください。いくら可愛くても、私レズなんで」
「わかってるよ…」
俺はアスハの小さなブーツを揃えてやりながら答える。
「私の後にお風呂は入らないでください」
「はいはい…」
「洗濯物は分けてください」
「うん…」
「風呂上がりのパンイチはやめてください。絶対」
めんどくせえなこいつ…。上層部にゴネてでも別室にしてもらったほうが良かったかもしれない。頭を抱える俺にアスハはぼふんとベットに勢いよく座る。
「お腹が空きました」
「はいはい。出前でもとろう。経費じゃなくてこっちのカード使えよ」
「わーい!」
件の洋服大量事件の後の食事などは、俺の自腹となっている。
昼にアスハが食べたどデカいパフェも俺の自腹だ。
次の任務の報酬日までもつか心配になってきた。
「じゃあ俺先に風呂入るから」
そう言ってコートを脱ぎ、浴室のドアを開けた。
風呂からあがると、アスハはテーブルいっぱいにピザを広げて満面の笑みで食していた。
「おふぁえりなさい〜」
「…また沢山注文したな…」
俺はタオルで髪を拭きながらピザを一枚とる。
「うまいな」
「でしょ〜」
アスハは楽しそうに答える。明日は人を殺すというのに。そういうネジの飛んだ奴こそ、暗殺に向いているのかもしれない。
ボスの顔が頭によぎる。
“向こうで暴走したら、迷わず後ろから頭を撃ち抜け“
「……っ」
「どうかしましたか?美味しすぎてくらっときちゃいました?」
無邪気に笑うこの少女に、俺は弾丸を撃ち抜けるのだろうか。俺は考えるのをやめて、アスハとピザを食べることにした。
翌朝、アラームの音で目が覚める。
昨晩は俺にはパンイチはやめろと言ったくせに、自分は風呂上がりにキャミソールとパンツ一丁で出てきやがった。文句を言うと「女子はいいんですよ」等と意味のわからない理論を出してきた。そして寝る前ベッドに横になると、「絶対にこっち向かないでくださいね」と壁スレスレまで追いやられてお互い反対方向で眠ることにしたはずなのに。
「……おい。朝だ。支度しろ」
今はこうして俺の腕を枕にぐーすかと寝息を立ててやがる。最初の警戒心はどうしたんだ…。アスハの肩をゆすってやると「うーん…あと1時間…」と寝ぼけたことをぬかした。
無理やり体を腕からひっぺがすと、にょーんとよだれがアスハの口から腕まで一筋の弧を描いた。
汚ねえ…。
俺はベッドから出ると、スーツに着替える。
「ちょっと!!着替える時は洗面所行ってくださいよ!!!」
「やっと起きたか」
俺はアスハの頭をぐしゃりと撫でてやる。
「…?なに笑ってんですか」
「さあ、なんでだろうな」
俺は昨日眠る前に願ったことをもう一度反芻する。
どうか、この少女の眉間に拳銃を向けることがありませんように。
もう一度撫でてから。「はやく支度しろ。馬鹿」とデコピンをお見舞いした。
その日の深夜。俺たちは無事、ターゲットの潜伏する廃ビルにたどり着いた。
雨音に紛れ、潜伏する俺とアスハ。俺はアスハに冷静に指示を出しながら、アスハはいつものようにカッターナイフの刃をカチカチと響かせながら敵をなぎ倒していく。
だが、なにかがおかしい。アスハのふらふらとした足取り、荒い息遣い。土気色の顔。そして──
「あッ……! ガハッ……! ぁぁあッ!」
突然、アスハが最後の敵を倒した後、カッターを地面に落とし、両手で頭を抱えてその場に崩れ落ちた。
「アスハ!?」
駆け寄ろうとした俺を制するように、彼女は激しい咆哮をあげる。過剰な精神負荷と薬物の副作用による、脳のエラー。精神暗示の決壊だった。
ゆっくりとアスハが顔を上げる。
そこにいたのは、俺の知るアスハではなかった。昨日まであった人間らしい豊かさは一切消え失せていて、瞳からはハイライトが完全に失われている。まるで精巧に作られた人間そっくりの殺戮マシン。
「……ターゲット、識別。障害物、排除」
少女のそれとは到底思えない、冷たく無機質な合成音声のような声。
アスハは床に落ちたカッターを拾い上げると、返り血を浴びた凄惨な無表情のまま、まっすぐ俺に向かって踏み込んできた。
「くっ……! アスハ、目を覚ませ!」
閃光のようなカッターの刃が迫る。俺は間一髪でそれを避け、銃のフレームで刃を受け止める。ガチッと金属音が響き、火花が散った。
速い。以前の戦闘よりも容赦がなく、破壊衝動だけに特化した動き。
腕を掠め、ジャケットが切り裂かれて鮮血が舞う。激痛が走るが、アスハの追撃は止まらない。敵味方の区別を失った狂犬は、本能のままに俺の命を狩りにきていた。
必死で攻撃をさばき、俺はアスハの胸を強く蹴り飛ばして距離を取った。
呼吸を整え、素早く腰のホルスターから銃を抜き放つ。
銃口は、一直線にアスハの眉間を捉えていた。
ボスの言う通りだ。ここで引き金を引けば、俺は助かる。組織の“忠実な暗殺者“として、命を長らえさせることができる。
だが──引き金にかかった人差し指が、激しく震えて動かない。
頭の中に、走馬灯のように駆け巡る。
焦げたパンケーキ。食堂で文句を言いながらブロッコリーを押し付けてきた顔。ショッピングモールで強引に買わされた、お揃いの黒いうさぎのキーホルダー。ホテルで揃えた小さなブーツ。
“だって、宮薙さんが絶対に後ろから助けてくれるって、分かってましたから“
あの時、嬉しそうに眉を下げて笑ったアスハの顔が、脳裏から離れてくれない。
クソッ…… なんで俺がこんなガキに、ここまで絆されてやがる……!
アスハが躊躇なく地を蹴った。カッターの刃を逆手に持ち、俺の喉元を正確に切り裂くために、殺意の塊となって跳躍してくる。
コンマ数秒の思考。俺は深呼吸をひとつ吐き出した。
そして──まっすぐ向けていた銃口を、静かに下ろした。
「……ふざけるな」
握っていた銃を、俺はそのまま床へ投げ捨てた。
「誰が殺すかよ……ッ!!」
プロとしての冷徹な判断も、銃も、すべてを投げ捨てた。
俺は無防備な身体のまま、死の刃を構えて迫りくるアスハの懐へと、真っ直ぐ飛び込んでいった。