EPISODE 04

狂犬アスハ

ASH JOURNEY

 ズッと、鈍い音が響いた。
 右肩に、鋭いカッターの刃が深々と突き刺さる。
 肉を割く激痛と、溢れ出す熱い血の匂い。視界が一瞬真っ赤に染まったが、俺は足をとめなかった。そのまま、目の前で刃を構えるアスハの小さな身体を、折れんばかりの力で強く抱きしめた。
「ぐっ……、あ……ッ!」
 肩の傷口から血を吐き出しながら、俺は彼女の耳元で叫ぶ。
「目を覚ませ、アスハ……! 言ったはずだぞ……俺のバディなら"死ぬな"ってな……!!」

 ズブリ、と。
 肩へ食い込んだ刃がさらに奥まで沈む。
 焼けるような激痛。
 視界が白く弾ける。
 それでも俺はは離さない。
 むしろさらに強く抱き寄せる。アスハは機械のように腕を動かし、何度も俺を振り払おうとする。胸を叩く。肩を押す。噛みつこうとする。
 でも俺は離さない。

 「……離さねぇ。」

 「お前は俺のバディだ。」

 「だから帰ってこい。」
 そこで初めて、アスハの指先が震える。
 俺を抱き返すアスハの腕から、すっと力が抜けた。ポロリと手から落ちたカッターが、コンマ数秒遅れてコンクリートの床で冷たい金属音を立てる。
 彼女の瞳に、ゆっくりと光が戻っていった。
 目の前で血まみれになっている俺の姿を見て、アスハの瞳が大きく揺れる。
 「あ……私……宮薙、さん……を……っ」
 ハッと正気に戻った彼女の目から、ぼろぼろと大粒の涙が溢れ出した。
 「泣くな、バカ……」
 俺は痛む肩をかばいながら、彼女の頭をぐしゃりと撫でた。そして「言っただろ」
「お前は死ぬなって。」
 すると
 「"お前は死ぬなよ"──ですか」
 アスハは懐かしむように、泣きながら言葉を反芻した。
 「ほら前を見ろ。追っ手が来るぞ。アスハ」
 「……はいっ!!」
 自分の意思で涙を拭ったアスハは、再びカッターを構えた。自我を取り戻した彼女の動きに迷いはなく、俺たちは互いの背中を守り合いながら、残った敵を完璧な連携で掃討した。

 ──数時間後。
 雨が上がった未明。俺は血で汚れたコートを脱ぎ捨て、応急処置だけを済ませた状態でボスの執務室のドアを叩いた。
 背後には、静かに佇むアスハがいる。
 扉を開けると、デスクに座るボスが冷ややかな視線を向けてきた。生きて戻ったアスハの姿を目にした瞬間、ボスの手が微かにデスクの上の銃へと伸びる。
 「……処分しろと言ったはずだ、宮薙」
 死線を超えてきた俺に向かって、変わらず無感情な声が投げかけられる。
 俺は込み上げる胃の痛みをポーカーフェイスで押し殺し、薄く笑ってみせた。
 「ボス、提案です。……こいつを処分するのは組織にとって大損害ですよ」
 「なんだと?」
 「ご覧の通り、ネジの飛んだこいつの暴走を止め、手綱を握れるのは……世界で俺一人しかいません」
 ハッキングで得た実験データのことには一切触れず、ただ"暗殺者としての自分の価値"と"アスハの有用性"をボスに叩きつける。
 「もしこいつを消すなら、俺も連動して組織を降ります。ですが……俺に預けてくれるなら、こいつは組織にとって最高の『不可侵の兵器』であり続けますよ──決して、情で助けたわけじゃありません。」
 「ほう?」
 「兵器として考えた場合、この個体を制御できるのは俺だけです。」
 室内に、重苦しい静寂が満ちる。
 ボスはしばらく俺の目を凝視していたが、やがてふっと鼻で笑い、銃から手を離した。
 「……フン。好きにしろ。ただし、手綱を滑らせたら二人まとめて消す」
 「……了解しました」
 背中に冷や汗をかきながら、俺たちはボスの部屋をあとにした。
 完璧な勝利ではない。組織の手から逃げ切れたわけでもない。
 けれど──俺たちは、自分たちの足で立つための『絶対的な領域』を勝ち取ったのだ。

 部屋の扉が閉まった瞬間。
 張り詰めていた緊張が一気にほどけた。
 「っ……」
 右肩から熱い血が再び滲み出す。
 アスハが慌てて駆け寄ってきた。
 「宮薙さん!傷が!」
 「騒ぐな。」
 「でも!」
 「ボスの前で平気な顔をするほうが痛かった。」
 そう言って俺は苦笑する。
 アスハは唇を噛む。
 そして、アスハはポツリと呟いた。
 「……助けてくれたんですね。」
 「…仕事だ。」
 「嘘です。」
 アスハは俺を覗き込む
 「……。」
 「宮薙さん、嘘つくの下手です。」
 「うるさい。」

 自室に戻り、俺は痛みに耐えかねて壁にもたれかかった。
 「…痛え…」
 思わずそう溢すと、アスハが救急箱を取って飛んできた。
 アスハが俺の服を脱がせ、消毒液を滲ませたガーゼで傷口を拭く。
 いつもはカッターを完璧に扱う器用な手が、申し訳なささと怖さで震えていることに気づく。
 「……手が震えてるぞ。カッター握る時より下手くそだな」
 「うるさいです……! 黙って手当てされててください……っ」
 アスハはまた涙目になりながらそう言った。
 そして血で染まったガーゼを見つめながら、彼女はポツリと呟く。
 「私、本当に宮薙さんを殺すところでした……。もしあのまま正気に戻らなかったら……」
 俺ははため息をついて、頭を乱暴に撫でてやる。
 「だから「離さねえ」って言っただろ。俺はそう簡単に死なない」
 手当てが終わり、包帯をきつく結ばれて「痛っ!」と思わず声をあげる。
 そして一泊置いてから。
 「約束を一つ増やす。」
 俺はアスハに向き合う。
 アスハが「何ですか?」と俺を見上げる。
 「暴走しそうになったら、一人で抱え込むな。」
 「……。」
 「絶対に俺を呼べ。」
 アスハは少し考えてから、
 「……はい。」
 と小さく笑った。

 ──数日後。
 癒えてきた傷の手当を終え、自室でタバコに火をつけようとしていた時のことだ。
 「宮薙さ〜ん!」
 ノックもなしにドアが勢いよく開き、新品のフリルワンピースを着たアスハが飛び込んできた。
 「ほら! 怪我人のために特製のおかゆ作ってあげましたよ!」
 自信満々に差し出された土鍋の蓋を開け、俺は絶句した。
 「……ちょっと待て、なんでおかゆがピンク色なんだ」
 「いちごミルク混ぜたからですっ♪」
 「食えるかそんなもん!!」
 ズキズキと痛み出す胃を押さえ、俺は頭を抱えた。
 相変わらず生意気で、調子に乗りやすくて、手の内には収まりきらない狂犬。
 けれど、その首輪の手綱を握っているのは、世界で俺一人だけだ。
 ふと見やると、俺のデスクの上には、あの日買い与えた"黒いうさぎのキーホルダー"が、彼女の鞄とお揃いで転がっていた。
 「早く食べてくださいよ〜! 冷めちゃいます!」
 「……分かったから静かにしろ」
 呆れながらも、俺の口元には、自分でも気づかないくらい小さな笑みが浮かんでいた。

 ふと窓の外を見る。
 いつの間にか桜のつぼみが膨らんでいた。
 灰色だった世界にも、春は来るらしい。
 組織の名は、アルカディア。
 理想郷を名乗るその場所で、今日も俺たちは生きる。
 灰の中を、二人で。